江戸庶民の食事

すき焼きは、溶き卵で食べますが、それは江戸時代の軍鶏鍋の食べ方に由来しています。江戸時代、徳川綱吉の生類憐みの令により、野鳥を獲ることができなくなりました。そこで、代わりに食べられるようになったのが軍鶏でした。しかし、雉や鴨などの野鳥に比べ軍鶏は味が淡白だったので、卵と合わせて濃くを出す工夫をしていました。所説ありますが、この鍋の食べ方がルーツになっていると言われています。

 

江戸時代、江戸に住む人々は、朝と晩の1日2食しか食べていませんでした。お昼ご飯を食べるようになったは、明暦の大火が原因だと言われています。その大火では、およそ10万人もの死傷者が出ました。大火の後は、急ピッチで建物を建てる必要があったため、全国から大工が集められ、昼も夜も時間を惜しんで働いていたそうです。

 

毎日、長時間働き詰めになると、途中でお腹が空いてしまいます。そこで、浅草の浅草寺の門前で、「奈良茶飯」という定食を出すようになりました。奈良茶飯とは、茶飯、豆腐汁、煮しめや漬物、お茶といった簡単なものでした。それまで大工さんは、お腹が空いたら自宅に帰って自分で食べるものを用意しなければなりませんでした。しかし、奈良茶飯が出現してからは、手軽で便利な定食が流行り、お昼ご飯を外で食べるというスタイルが広まりました。

 

江戸時代の独身男性の朝ご飯は、お米を1日5合も食べていました。朝、ご飯を炊いたら、棒手振というおかず売りから、魚や納豆などのおかずを買って食べて仕事に出かけていたそうです。

 

お昼ご飯は、おにぎりを自分で作って持参する人もいたようですが、ちょっとおかずが足りない場合は、屋台で天ぷらややイカ焼きなどを買い足して食べていました。

 

は、あっさり済ませる人が多く、残ったご飯にお茶を掛けてお茶漬けを食べたりしていました。お酒を飲みたい人は、四文やという惣菜屋やおかずを買って自宅で飲むというスタイルだったようです。串に刺した総菜を、1本四文(約100円)で売られていました。このように、朝1日分のご飯だけ炊いて、おかずはテイクアウトするのが主流だったのです。

 

江戸に住む人々は、白米がメインの食事をしていたので、脚気になる人が多くいましたが、ビタミンB1を多く含有する蕎麦によって改善することができたそうです。

 

一方、徳川家康は、白米ではなく麦飯を健康のために食べていました。麦飯に八丁味噌を付けるだけの質素な食事で、健康管理と長寿を全うすることができたのです。良かれと思って、麦飯の下に白いご飯をよそって出した家来に、怒鳴ったという逸話があります。